君を今日も 愛してる!

おもいを綴るばしょ

わたしのいぬが好きな理由

なんとなあ〜く考えていたこと

小学生の時からわたしは犬が好きだ。

 

趣味、マニア、オタクというとのは様々で、

鉄道オタクと言われる人たちも、乗り鉄撮り鉄、などさまざまな種類にカテゴライズされている。

ダイヤが好きな人、車体が好きな人、広告が好きな人、切符を集める人、Nゲージとかも挙げられる。

 

 

そういう、趣味の中でのカテゴライズからあえて考えると、小学生の頃からのわたしの犬好きは「犬種」に特化しているように思う。

もちろん職として行う専門的な人や学問として行う人もいるし、なんならそのカテゴリーのなかでも、ショーやブリード、トリミングとさらに専門性を絞るとより深い話になってくるのだと思う。

 

わたしの場合は、個人の一嗜好の範囲内であることをご了承ください。

(こういう注釈をつけちゃうのも悪い癖)

 

 

 

 

さて、本題に移る。

 

小学生の頃から気づけば好きで、図鑑をずっと眺めているような子供だった。

わたしの住む片田舎では(単純に人が少ない)あまりみられないような図鑑でしか見たことない犬種に出会った時の興奮がたまらなかった。

 

 

 

大きい犬、小さい犬、細い犬、太い犬、筋肉質な犬、だるんだるんな犬。

毛の長さ、毛質、骨格、、

違う種類の生物では?と思うほど違うのに、全部「犬」。

そして、どちらのがいいとか悪いとかではなく、全ての犬に魅力がある。

「ああ、あの子は胴が長いから、洞穴の中の狩が得意だね」

「あの子は昔水難救助してただけあって水が大好きだね。あの被毛は水を弾くらしいよ」

「暑い国の出身だから寒さには弱いみたいだよ」

「日本犬は警戒心が強いけどそこもまたかわいい。番犬になるね。」

 

身体的特徴や気質メリットもデメリットも当然それらの、個性が、個性として、認められているし、必ず好きな人がいる。

なんだかそれがすごく心地よくて、個性を知ることが嬉しかった。

 

 

もちろん、「犬種」マニアとはいっても、

血統だけが正義ではないと思っていて、

いわゆる雑種と言われる子たちは、

どんな先祖がいるか、先祖の犬種も分からない形も含めて、

「個性大爆発!」と思っている。

 

「この骨格はテリアの血を引いているのかな?」

「だからこんなに元気なのかな?」

「お母さんのこんなところを受け継いだのね〜!」

「田舎の雑種の圧倒的日本犬感!(ラブ)」

 

この唯一無二な個性により惹かれる人の気持ちも分かる。

 

 

もしかしたら、若干無理のある意味づけかもしれないが、

今のわたしの価値観や人生観、仕事観にも通たるものがあるなぁと。

 

その人の持つ性質が、個性として有る

受け入れられてそれぞれの難しさを知った上で

それぞれの良さを見出せて、受け入れられる

そしてみんなが共存する。

 

そんな世界を求めていて、

なおかつ個性に興味がある。

 

 

 

 

 

さて、昨年わたしは犬を迎えるにあたって、

全国のブリーダーさんについても少し調べる機会もあった。

 

ちょっと調べただけの浅はかな知識と印象でしかないけど、

ブリーダーという仕事の奥深さに敬意を感じた。

 

近年、ペットショップでの生体販売が問題視されていることはよく耳にする。

そんな中でブリーダーの質や在り方についても様々な協議がされていることも。

 

 

その犬種の「スタンダード」というものがあり、

体高や体重、毛の色、立ち姿のバランス、耳の立ち方等ひとつとっても、細かく定められている。

 

「そんなこと言って、じゃあそうじゃない子は劣等生なの?」

そんな議論もよくされているが、

もちろん「個体としてはオンリーワンでナンバーワン」というのは大前提。

これまでのわたしの話を通すと、「そういうのはちょっと…」って言いそうだと思うけど、それもそんなことなくて。

もちろん大前提が大前提。

そこを大切にしないブリーダーはブリーダーとして失格である。

 

だけどこのように「スタンダード」を守る人がいるから、種が守られる。

そして、その種のことを分かっているからこそ、遺伝的に多い、気をつけなければならない疾病など、交配について最善の注意を払うことができる。

だから種が正しく、健康に守られる。

生物として子孫を残すことができている。

種として存続される。

 

 

それが「命を扱う責任と使命」であると思うのである。

 

 

 

 

 

そんな一方で。

そんな種のカテゴライズをしているのは、

人間なのであるという事実も突きつけられて、

ハッとさせられることもある。

 

金子みすゞさんの詩で、「草の名」というものがある。

 

 

 

草の名

 

人の知ってる草の名は、

わたしはちっとも知らないの。

 

人の知らない草の名を、

わたしはいくつも知ってるの、

 

それはわたしがつけたのよ、

すきな草にはすきな名を。

 

人の知ってる草の名も、

どうせだれかがつけたのよ。

 

ほんとの名まえを知ってるは、

空のお日さまばかりなの。

 

だからわたしはよんでるの、

わたしばかりでよんでるの。 

 

 

 

 

 

この詩に出会ったのも小学生の頃だったけど、

歳を経て噛み締めれば噛み締めるほど深いなと思う。

そしてそれは個人的な想いが重なった時に抱く気持ちだ。

 

 

人間がつけた名も、カテゴライズされた分類も、

でもそこには生態学的な意味があって分類されている。

これまでのたくさんの人たちが研究して分類されて、だからこそ守れた命や乗り越えた困難も多く有る。

生態系、食物連鎖、、、

 

 

 

 

どちらが正とかか、そんな話ではないのだ。

 

 

 

 

 

人間のせいでなくなるものもあれば

人間のおかげでまもられるものもある

 

人間は、自身の進化ではなく

環境を変えることで種を守っている

独自の進化をした唯一の存在である

 

某博物館で書いてあった文章。

なるほどなぁ〜と。

 

 

地球温暖化や、環境汚染、

人間の影響で変わってしまっているもの

もちろん変えていけるところは早急な対応が必要

影響を考えた上で選択して行く責任がある

 

 

ただ、地球や生命といった大きい括りで見たら

それすら想定の範囲内なのだろうと平伏す。

縄文杉を見に行った時、大自然を目の前にもそう思った。

 

 

 

とりとめとなく話しているから、

ゴールがわからなくなる、あるある。

 

とにかく、みんなちがってみんないい

真の意味でそんな世の中になればいいのにな。